既聴でチアー: “Be My Last”をチアー&ジャッジ!

って何のことかわからないでしょうけれど、この新企画「菊地成孔のチアー&ジャッジbounce | インタビュー - TOWER RECORDS ONLINE への参加してみます。

結論を先に書くと、タイトルどおり「既聴でチアー」です。

基本的には同じことを二つの側面からきっちり書き分けてる、という菊地さんらしい文章になっています。でも正直に言うとどっちのレビューも、「全くそのとおり」と思うほどしっくりはきませんでした。

まず「チアー」のほうだけれど、宇多田ヒカルがかつての「Automatic」のようなR&B色をそぎ落としていわゆる和もの歌謡を前面に出した曲はなにもこれが初めてではない。なので和もの感の顕在化を理由に、この曲を彼女のキャリアの中の特異な変質点と位置づけるのはちょっと弱いと思う。ただ、たしかにこの曲は彼女にしかできないオリジナルな「歌謡曲」である、という指摘はそのとおりだと思う。

次に「ジャッジ」のほう。これも、彼女のシングルヒストリーにおいて曲のクォリティーが一貫して増加してきたとは思えないので、この曲が「初のクオリティ・ダウンを記録してしまっている」というのはちょっと言いすぎかなあと。それでもシングルとしては今までなかったくらい陰のある曲なので、外部要因を補完して聞く人にとっては変質点ととられてしまうであろうことは確か。でもちょっと穿ちすぎだよなあ。

で比べてみて、有効な情報量が多い「チアー」の方がどちらかというと良かったかな、と。ただ、これは単にこの曲がわりと「好きな」私の感情が選ばせているような気もします(それじゃ単なる人気投票じゃん(笑))。

そもそもこの企画について

菊地さんは常々、インターネット上の素人レビューの暗黒面について警鐘を鳴らしていたわけだけれど、その菊地さんがこんな企画をはじめてしまうというのが面白すぎます。

で、この企画の意図を読み取ってみるに、これはようするに素人レビューと同じ土俵に上がって戦ってやろうじゃん、という菊地氏の宣戦布告、というのは言い過ぎで実際には新しいゲーム、なのだと思う。

「批評」というのは(批評される)「作品」に対して原則的にメタな次元からなされるものなので、「作品」を発表する表現者はネガティブな批評をした批評家に対して直接反撃する手段を持たない。表現者がメタな次元に上がっていったら表現者としてではなく批評家として戦うことになる(それは多くの表現者は望まないだろう)。

ただし、プロの批評家の場合には批評家自身の評判というものがあるので、表現者と批評家の支持率が逆転する機会は常に与えられている。それに対して素人のネガティブレビューが恐ろしいのは、匿名性の高い素人への評判システムはありえないので、表現者が一方的に打たれっぱなしになってしまうところだ。

翻ってこの企画の構造を考えてみると、このケースでは批評そのものを素人に最批評してくれ、と頼んでいるわけだ。注意してほしいのは、「作品 vs 批評」の場合と違って「批評 vs 批評」はメタなずれを含まず同じ次元にあるということ。「批評 vs 批評」は、要するにそれは単なる「議論」だ。この構造ならば、我々の素人レビューに対して菊地氏は遠慮なく(容赦なく?)反応することができる。インターネットの混沌を向こうに、こんなアングルを考えてしまう菊地さんは流石だなあと思う。

てなことを書いた後に久しぶりに菊地さんの日記を見に行こうとしたら、今年の7月の時点で終了していました。すごく残念ですが、一方で、今までは流れていってしまっていた一年分の過去ログが日記アーカイブとして公開されています。例えば 2005/2/9 の自薦「菊地成孔楽曲大賞」なんてお勧めです。